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水にまつわる言葉

「水」は、太古の昔から人類の命や暮らしを支え、絶えず生活と共にありました。
人々は水に感謝し、恐れ、敬い、時には苦しめられながら、「水」の中に様々な意味を見出しています。
古くから伝わる日本のことわざや中国の故事成語の中にも、「水」に関するものがたくさんあります。

水魚の交わり(すいぎょのまじわり)・水魚之交
水と魚が切っても切り離せない関係であるように、離れることのできない親密な間柄のこと。また、夫婦の仲がむつまじいことのたとえ。
三国志で、劉備が諸葛孔明と自分の間柄について、「孤の孔明あるは、猶魚の水有るがごとし」(私にとって孔明がいるのは、言うなればちょうど、魚に水があるようなものである。)と語った言葉が元であるとされています。
どんなに親密な関係になっても、その場の一時的な交流において用いるのは誤りで、長期にわたり、不変で唯一無二の関係を表します。
英語では、
A Damon and Pythias friendship.(ダモンとピュティアスの仲)
とも訳され、「ピュティアスが処刑される判決を下されたとき、ダモンはピュティアスが身辺を整理するのを許容してもらうため彼の代わりをした。ダモンの命を救うためにピュティアスが時間どおりに戻ると、王は感動して双方の命を救った。」という、走れメロス系のギリシャ伝説が元になっています。
魚の水を得たるが如し(うおのみずをえたるがごとし)
離れることのできない親密な交際や、間柄のたとえ。
また、苦境から脱して、もしくはその人にふさわしい場所を得て能力を発揮し、大いに活躍することのたとえ。
「水を得た魚」ともいう。
「水魚の交わり」同様、三国志の劉備の言葉が元になっています。転じて、魚を水中に放つと元気よく泳ぐ様子から、「ふさわしい場所を得て活躍する」という意味でも多く使われます。
魚心あれば水心(うおごころあればみずごころ)
「魚に水を思う心があれば水もその気持ちをくみとるであろう」ということから、相手が自分に好意を示せば、こちらも好意をもって応対する用意があるということ。
「水心あれば魚心」ともいう。
相手の出方によって、こちらの対応の仕方も違ってくる。相手が好意を示してくれれば、こちらも応じようというたとえで、多くは相手の態度によって自分の行動をどうするか決める、という意味で使われます。
本来は「魚、心あれば、水、心あり(魚に心あれば、水に心あり)」だったものが、後に誤って「魚心」「水心」とそれぞれ一語化したものだそうです。
英語では、
Claw me and I will claw you.(私を掻いてくれたら、私も君を掻いてあげよう)
Serve me, serve you.(君が僕に尽くしてくれれば、僕も君に尽くそう)
など、かなり直接的に表現されます。
君子の交わりは淡きこと水の如し(くんしのまじわりはあわきことみずのごとし)
物事をよくわきまえた人の交際は水のように淡白であるが、その友情はいつまでも変わらないということ。
中国の思想家・荘子の著書の「君子の交わりは淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故無くして以て合する者は、則ち故無くして以て離る」(教養がある人の交際は水のように淡白だが永い間親しみ続け、つまらない小人物の交際は甘いためにすぐに途絶える。理由なしに結ばれた者は、理由なしに離れるものである)という記述が元になっています。
「小人の交わり」に例えられている「醴(れい)」とは、ベタベタしている甘酒のようなもので、一晩で出来上がってすぐに甘くなる反面、またすぐに酸っぱくなり、濃厚で飽きやすいことを表しています。
水は方円の器に随う(みずはほうえんのうつわにしたがう)
人は環境や友人によって、良くも悪くも変わるというたとえ。
孔子の『韓非子』に「人君為る者は猶盂のごときなり。民は猶水のごときなり。盂方なれば水方に、盂圜なれば水圜なり(君主たる者は水をいれる鉢のようなものである。人民は、その鉢の中の水のようなもの。鉢が四角なら水も四角い形となり、鉢が丸ければ水も丸い形を作る)」とあり、四角い器に水を入れれば水も四角い形になり、丸い器に水を入れれば水も円形になることから転じて、人も環境や付き合う人物いかんで良くも悪くもなる、ということです。
英語でも、ほぼ同じ意味のことわざ、
Water leads itself to its vessel.(水はおのれをその容器に導く)
が使われています。
渇しても盗泉の水を飲まず(かっしてもとうせんのみずをのまず)
どんなに苦しいときであっても、決して不正なことは行わないことのたとえ。
孔子が山東省を旅行しているときに、泗水にある盗泉という名の泉のそばを通りかかりました。孔子はからからに喉が渇いていましたが、「盗泉」という泉の名を嫌い、「名前だけでも身が汚れる」と言ってその水を飲みませんでした。
その故事について、晋の文学者・陸機が著書『猛虎行』の中で詠んだ詩「渇しても盗泉の水を飲まず、熱しても悪木の陰に息わず」(喉が渇いても、盗泉という名のついた泉の水は飲まず、熱くても、悪木と呼ばれる木の陰では休まない)に基づいています。
同様のことわざとして、詩の後半部分「熱しても悪木の陰に憩わず」も使われます。
英語では、
Better to be alone than in bad company.(悪い仲間と交わるよりひとりでいる方がよい)
です。
水清ければ魚棲まず(みずきよければうおすまず)
あまりにきれいで透明すぎる水は、餌になるプランクトンが少なく、姿も隠せないので魚は近づかないことから転じて、あまりに清廉すぎる人は、かえって人に親しまれず孤立してしまうことのたとえ。
『孔子家語』の「水至りて清ければ則ち魚無し。人至りて察(あきら)かなれば則ち徒無し」(水が清らかすぎれば魚が住まないし、人が潔白すぎれば仲間ができない)という一節から引用されています。
英語でもほぼ同じ意味で、
A clear stream is avoided by fish.(澄んだ流れは魚が避ける)
です。
あまりに高潔であると孤立する、という、少し寂しい表現ですが、高潔であることがいかに難しく、そして尊いことであるかを表す、こんな表現もあります。
水清ければ月宿る(みずきよければつきやどる)
水が澄んでいれば、月がきれいにうつる。心にけがれがなければ、神仏の恵みがあるというたとえです。
古川に水絶えず(ふるかわにみずたえず)
旧家は衰えてもたやすくはつぶれないということのたとえ。また、基盤がしっかりしているものは、衰えてきてもたやすく滅びないことのたとえ。
古い川は涸れたように見えても、川底では水の流れがいつまでも続いていることから転じて、いわれのある旧家は、没落したとしても昔をしのばせるような財産や宝物などが残っているものだ、ということです。
一衣帯水(いちいたいすい)
一筋の細い帯のように長く、狭い川や海峡のこと。二つのものの隔たりが狭く、きわめて近隣していることのたとえ。
中国の歴史書『南史』に、陳の君主の悪政によって庶民が飢えているのを見た隣国の文帝が、「陳の後主荒淫なり。我は百姓の父母為り。あに一衣帯水に限られて、これをすくわざるべけんや」(君主の跡継ぎは、淫らで残酷だ。私は人民の父母である。陳と一本の帯のような細い川に隔てられているからといって、彼らを救わずにいることがどうして出来ようか)と言って陳の国を討伐した、という故事があることから、細い河川や海峡で分断されているが、それをものともせず、その両岸の関係が非常に深いことを表します。
明鏡止水(めいきょうしすい)
邪念が無く、静かに落ち着いて澄みきった心の状態のたとえ。
「明鏡」は、一点の曇りもない、よく映る鏡のことで、「めいけい」とも読みます。
「止水」とは、流れずに静かにとどまって、澄んだ水面のことです。
まるで曇りの無い鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境を表します。
中国の思想家・荘子の著書『徳充符』にある「明鏡」と「止水」の二つの言葉を合わせてできた四字熟語で、「明鏡」は、甲徒嘉の言葉「鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず、止まれば則ち明らかならざるなり」(鏡がきちんと磨かれていれば塵は付かない、塵が付くのは鏡が曇っているからだ)から、「止水」は、孔子のことば「人は流水に鑑みること莫くして、止水に鑑みる。唯止まるもののみ能く衆衆の止まらんとするものを止む」(人は流水を鏡として使うことはなく、静止した水を鏡とする。ただ不動の心を得た者のみ、心の安らぎを求める者に対して、それを与えることができる)が元になっています。
行雲流水(こううんりゅうすい)
物事に執着せず、自然の成り行きに身を任せること。また、とどまることなく自然に移り変わってよどみがないことのたとえ。「流水行雲」ともいう。
中国の歴史書『宋史』の蘇軾の言葉「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質無し。但常に当に行くべき所に行き、止まらざるべからざる所に止まる」(文章を作るときは空を行く雲や流れる水のように、初めから決まった形があるのではない。行くべき所に行き、止まる所で止まるのだ)が元になっています。
空を漂い行く雲も、とどまることなく流れる水も、自然の流れに逆らうことがなく、行方を定めないという意味から、諸国を行脚する僧の意味もあり、または、単に気ままな旅のことをさす場合もあります。
鏡花水月(きょうかすいげつ)
はかない幻のたとえ。目には見えるが、手に取ることのできないもののたとえ。また、感じ取れても説明できない奥深い趣のたとえ。詩歌・小説などの奥深い味わいのたとえ。
「水月鏡花」ともいう。
本来は、鏡に映った美しい花と水に映った美しい月の意味で、それらは目には見えても見るだけで、実際に手に取ることができないことから、感じるけれど言葉では説明できないものや、見えるけれど手に取ることのできないもののたとえとして使われます。
漢文の文体の一つで、その物事をあからさまに説明しないで、しかもその物事の姿をありありと読者に思い浮かばせる表現方法を「鏡花水月法」と言います。
山紫水明(さんしすいめい)
山は紫にかすみ、川は澄み切っていること。自然の風景が清浄で美しいこと。
江戸時代後期の文人・頼山陽が、京都に建てた草庵から見る美しい景色を表現して、その草庵を「山紫水明庵」と名付けたことから使われるようになった、と言われています。
我田引水(がでんいんすい)
他人のことを考えず、自分に都合がいいように言ったり行動したりすること。自分に好都合なように取りはからうこと。「我が田に水を引く」ともいう。
農業用水は村共有のものなのに、自分の田んぼにだけ水を引き入れ、他人の田んぼのことは一切考えないことから出来た言葉です。
英語では、同じように「水」を使って
Every miller draws water to his own mill.(粉屋はみな自分の製粉場へ水を引いてくる)
と表現します。
覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず)
いったん離縁した夫婦の仲は元に戻らないことのたとえ。転じて、一度してしまった失敗は取り返しがつかないということのたとえ。
中国の『拾遺記』の中の、周の国の夫婦にまつわる故事が元になっています。
夫・呂尚が読書ばかりして働かなかったため、妻・馬氏は離婚を申し出、実家に帰ってしまいました。やがて呂尚が大出世して「太公望」と呼ばれるようになると、馬氏は復縁を迫ります。呂尚は盆の水を床にこぼし、「この水を盆に戻せたら復縁に応じよう」と言いました。
馬氏は必死に手で地面をすくいましたが、泥ばかりで水はすくえません。呂尚は「一度別れて復縁を求めてきても、こぼした水は二度と盆の上には戻らない」と言って断った、ということです。
同じような故事は『漢書』にも見られます。
英語では、「水」のかわりに「ミルク」を使った、
It is no use crying over spilt milk.(こぼれたミルクを嘆いても仕方がない)
という表現があります。
蛙の面に水(かえるのつらにみず)
どんな目にあわされてもいっこうに気にせず、平気でいることのたとえ。
「蛙の面に小便」ともいう。
蛙は水をかけられても少しも嫌がらないことから、図々しい、ふてぶてしい人に対して、皮肉をこめて言うことが多いです。
上手の手から水が漏る(じょうずのてからみずがもる)
どんなに上手な人でも、時には失敗をするというたとえ。
「上手」とは、そのことに巧みである人の意味で、江戸時代、囲碁将棋の世界では七段の免状を持つ者を「上手」、九段の免状を持つ者を「名人」と称しました。
上手や名人と言われるほどの人でも、時には思わぬ失敗をするということです。
背水の陣
失敗すればもう後がない、切羽詰まった立場で事に当たるというたとえ。
中国の歴史書『史記』にある故事で、漢の功臣韓信が趙と戦ったとき、兵たちを敢えて山上の砦から下ろして不利な立場にし、川を背にして戦わせたところ、兵たちは一歩も引けない状態で死に物狂いで戦闘し、趙の軍を打ち破ったという一節から、一歩も退くことができないという状態で事に当たる時に使われるようになりました。
英語では、同じように後戻りできないことの表現として、
have one's back against the wall(背中が壁につく)
burn one's bridges(橋を燃やす)
などと言います。
血は水よりも濃い(ちはみずよりもこい)
血の繋がった血縁者の絆は、どんなに深い他人との関係よりも深く強いものであるというたとえ。また、血は争えないということ。
血液が水よりも重く濃い液体であることから、血の繋がった身内の絆の濃さを表しています。親しい他人に比べても、血縁者同士の絆のほうが深く強いもので、頼りになるということです。
また、同じ血が流れる者同士の間には、濃い結びつきがあるということにも使われます。
英語でも同じ表現、
Blood is thicker than water.(血は水よりも濃い)
があります。
年寄りの冷や水(としよりのひやみず)
老人が年齢にふさわしくない危険なまねや、出すぎた振る舞いをすること。
年寄りが、強がって冷たい水を浴びたり飲んだりするような、無理をする言動のことです。
自分の年齢も考えずに無茶をするのは健康に良くないことから、それを自虐的に言ったり周りがたしなめたりするときに使います。
「冷や水」は「冷水」とも書き、『江戸いろはかるた』の一つです。
英語でも似たような諺、
Too old to cut the mustard.(カラシを切るには歳をとりすぎている)
があり、「カラシを切る」とは、期待に応える、または求められた仕事をこなす、という意味で使われます。
遠水近火(えんすいきんか)
遠く離れていては急場の役に立たないということ。
中国の思想家・韓非の著書『韓非子』の中で、「遠水は近火を救わず」(遠くにある水は、いくらたくさんあったとしても、すぐ近くの一刻を争うような火事を消すには役にたたない)という表現があることから、遠い場所にあるものは、それがいくら有用でも、差し迫った場面では役にたたないという意味で使われます。
盈盈一水(えいえいいっすい)
愛する人に言葉をかけることの出来ない苦しい思いのこと。
中国の詩文集『文選』で、七夕伝説を題材に、一筋の天の河で隔てられているために、見つめるだけで会話することが出来ない牽牛と織女の切なさをうたった詩の中の「盈盈一水の間」という表現が元になっています。
「盈盈」は水が満ちあふれる様子、「一水」は一筋の川のことです。
飲水思源(いんすいしげん)
物事の基本を忘れないこと。お世話になった人の恩を忘れないこと。
中国北周の詩人・癒信の『徴調曲』の中の一節からで、「水を飲む者は、その源に思いを致せ。」という意味です。
千山万水(せんざんばんすい)
多くの山と、多くの川。転じて、長く険しい旅路のたとえ。
千や万は、数の多いことをあらわしています。
雲水不住(うんすいふじゅう)
雲や水のように、一か所に住みとどまらないこと。
言葉や行動に一貫性がないことや、職が定まらないこと、など、あまり望ましくないことののたとえとしても使われるようです。
カラスの行水(からすのぎょうずい)
入浴時間がきわめて短いことのたとえ。
カラスの水浴びは、非常に短く簡便であることが由来です。時間にして1~2分で、スズメやハトにいたっては、数十秒で終了します。
「行水」とは、たらいに湯や水を入れて体を洗い流すことです。
立て板に水(たていたにみず)
弁舌が達者で、よどみなく流れるようにしゃべること。
立てかけてある板に水を流すように、すらすらとしゃべることのたとえで、『上方いろはかるた』の一つです。
寝耳に水(ねみみにみず)
突然、思いがけない出来事に出くわし驚くことのたとえ。
耳は、人の体の中で最も無防備な部分の一つであることから、眠っているときに急に水の音が聞こえる、つまり不意の出来事に驚くという意味のことわざです。
元々は眠っているときに水の音が聞こえることを言ったのが、後に寝ているとき耳に水が入るという意に解されるようになったと言われています。
また、寝ている耳に洪水を知らせる叫び声が届いたという説もあり、『尾張(大阪)いろはかるた』の一つです。
焼け石に水(やけいしにみず)
わずかばかりの努力や援助では、効果がほとんど期待できないことのたとえ。
焼けて熱くなった石に少々の水をかけたところで、水は蒸発し、石を冷ますことができないことからきたことわざです。
湯水の如く(ゆみずのごとく)
金銭を、惜しげもなくむやみに使うこと。
湯や水は、どこにでも豊富にあるものとしてたとえられ、金銭も同じように無尽蔵にあるかのように、主に無駄なものに費やすことを非難して使う言い回しです。
水かけ論
互いに自分の主張にこだわって論旨がかみ合わず、際限なく続く議論。
狂言の演目『水掛聟(みずかけむこ)』に由来するともいわれています。
日照りが続いたある日、隣り合わせの田を持つ舅と婿が、それぞれ自分の田に水を引こうとして口論になり、いつまでも言い争った挙句に互いの顔に水をかけました。
舅の娘が仲裁に入り、最後は夫(婿)と共に父(舅)を突き倒す、という話です。
一方、水の掛け合う遊びのように勝敗が決まらない論争、という意味で『水掛け論』という言葉が先に生まれ、その後、『水掛聟』の話が作られたとも言われています。
水と油(みずとあぶら)
二つのものが調和しないこと。互いに気が合わず打ち解けないこと。
水と油は質が違い、決して混じり合わないことから、異質で溶け合わないず、しっくりこないことをいいます。
水泡に帰す(すいほうにきす)・水の泡(みずのあわ)
水の泡がはかなく消えるように、努力の甲斐もなく全く無駄に終わることのたとえ。
あっけなく消え失せてしまう水の泡のようになるという意味で、それまでの努力や苦労がすべて無駄になることを言います。